私はうつ病になって4年になりますが、うつになった要因を詳細に語ることができたのは昨年の夏になってからになります。
「自分の状況を整理できなかった」「うつになった時のことを思い出したくなかった」というのもありますが、安心して誰かに話すことができなくなった主な原因は父の言動にありました。
長く連れ添ってきた父からこんなにもキツイことばと行動をされるとは思っていませんでした。
今は家庭内別居中で暮らしていますが、声や体臭、階段を下りる振動などが引き金となって嫌な記憶が思い出されるフラッシュバックがしょっちゅう起きてます。
そんな家族にも理解されないうつ病の話を話していきたいと思います。
うつ病の症状がひどい時は長い文字を読むのがしんどいと思うので三行まとめだけでも読んでってください
安心して話せないうつの症状
うつの初期症状
私は過労から2017年の2月に倒れ産業医と相談した結果、4月から3か月間を目途に病気休業をとることになりました。
休みをとることになってすぐは比較的活動的に動けることが多く、動物園や植物園に写真を撮りに行くことや地元の友達と会うことも臆せずにできました。
しかし復職の時期が近づくにつれて体に異変が出てきました。
身体が鉛のように重くなり、夜眠れなくなったり、気分が落ち込んだり、イライラしたり、日に日に体調が悪くなっていきました。
気分がすぐれない日が続きとうとう今まで通っていた病院に通えなくなりました。
とうとう病院にも行けなくなった
うつ病になって間もなく2週間に一度東京の病院に通っていました。
2週間は東京で療養しながら病院に通い残りは大阪で休養をとる生活を続けていました。
ところがある時期を境に身体が東京に行くことを受け付けなくなり、関東の地名を聞くだけで不安と恐怖に襲われるようになっていました。
きっとこれ以上心が傷つかないように自然に防衛反応をとるようになったのでしょう。
通院を一回休むことになりましたが、それでも母の付き添いもあってなんとか東京の病院に行くことができました。
しかし、医者からは通院できなかった理由も聞かれず「治す気がないのか」「病院に来ないのはもってのほか」といった心無い言葉を浴びせられ立ち上がれないほど落ち込みました。
これが病気のことを誰かに安心して話をできなくなった原因の一つになります。
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父のことを信用できなくなった言動
悪化していく症状
東京の病院でキツイ言葉を投げかけられて以来大阪の別の病院に通うことになりました。
同時に休業の期間も6か月まで伸ばすことにしました。
この時期が一番気分の浮き沈みが激しく特にイライラしていた時期になります。
正直今でもこの頃のことを思い出すのはしんどいです。
大好きだったゲームやマンガへの興味が無くなり、何をやっても楽しくなくなり生きる意味を見失っていた時期でもありました。
その日はたまたま体調がよくゲームをできていたのですが、対戦で負けが重なり「自分が否定されている」と感じてとうとう物を投げ襖に穴を開けてしまいました。
奇声をあげ暴力的な行動に出ることでしか怒りを止めることができませんでした。ジャンプをビリビリに破いたこともあります。
会社からボロクソに言われて社会から自分を否定され、唯一の楽しみであったゲームからも自分を否定され、この感情をどうすることもできなかったのでしょう。
父の言葉
暴れる様子を見かねた父は「ゲームをやめろ」「他に楽しめることを探せ」と言ってきました。
一般的に考えると父の言ってることは正しいと思います。
楽しむはずのゲームで苛立ちを感じるようならやめるべきだし、別のことをして気分転換する方が心身にとってよいと考えたのでしょう。
でもその時の自分は他に何かをする気力や体力もなく、唯一楽しめるのがゲームしかなかったのです。
数少ない拠り所をとられてこれから何をして前向きに生きていったら良いのかわからず困惑しました。
嫌だってことを言えればよかったのですが、これがうつ病の症状の嫌なところで脳が上手く働かず自分の感情を言葉にできなかったのです。
また会社からのメールや書類を返信できなかったのに対して、「早く返信しないと会社に迷惑がかかる」と言われ、私の体調や心身の状態よりも企業のことを優先させる人なんだと思い不快感を覚えるようになりました。
父から見るとゲームはできるのに「社会人としての当たり前」が出来てない私は、ただ怠けているだけの人のように見えたのでしょう。
ようやく「うつは病気」という考えが広まってきましたが、未だに「うつは甘え」と考えていたのだと思います。
父との信頼関係が決定的に崩れた出来事
「自分の心が整理できていない」「医者からの心無い言葉」「父親への不信感」から、うつ病になった経緯を家族に話せずにいました。
これまで会社のパワハラや過労で傷つけてきた私が詳細を話すことでしんどくなると思い黙っておくことを決めたのです。
人に自分の本心を伝えるのが怖くなっていました。
そんな時に父は働いてた様子を聞きに東京の本社に私に内緒で行ってました。
当時の上司やチームメンバーでも何でもない人にヒアリングし、私が会社で明るくふるまってた様子や気配りがよくできてたと当たり障りのない言葉でおだてられて帰ってきました。
パワハラや過労の実態にはまったく触れずに、息子の人当たりのよさだけ確認してぬくぬく帰ってきた父が許せませんでした。
どれだけ惨めに思ったか。どれだけ怒りを覚えたか。どれだけ心を傷つけたか。どれだけ苦しく感じたか。どれだけ感情を押し殺したか。どれだけこれまでの自分を否定されたか。
この行動で父に対する信頼は一切なくなりました。
同時に自分からうつ病について話をしなくなり、心にひとり閉じこもることになりました。
この一件があり私がどれだけ傷ついたかを父に話したところ、大の大人が泣き叫んで土下座して謝っている様子を私は初めて見ました。
ここで許すという選択肢もあったかもしれませんが、心神喪失して大きな心の傷を負った当時の自分には許すだけの度量は持ち合わせていませんでした。
そこからは家庭内別居という形をとり顔を合わせることもなくなりました。
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あれから約3年経った今振り返る
ようやく話せたしんどい気持ち
昨年の夏のこと今まで心に押しとどめていた会社であったことの顛末をようやく母に話をすることができました。
上司と社長からのパワハラやセクハラ、無茶なタスク振りや業務を管理しない管理職、労働時間の長さに対して是正を行わない管理部、社長のリクルートや運転手としてこき使われ挙句の果てに罵倒される。そして本人の都合も無視して勝手に異動とむちゃくちゃされました。
それでも話ができたことで心に長い間突き刺さっていた釘がようやく取れて少し気が楽になりました。
時間が経って思うこと
うつ病になって4年毎日日記をつけたり、こうやってブログを書くことでうつの症状や感情をある程度客観視できるようになったと思います。
当時は心身が不安定な時期で物事がハッキリ理解できていたとは思えません。
また父も自分の本意で話せていなかったことや誤解があったかもしれません。
正直狂気的な父の行動も病状について何も話をしなかった私に配慮して良かれと思ってやったことだと今では思っています。
父は家庭内別居になった今でも生活費を払ってくれていて、これにはとても感謝しています。
生活必需品や病院の治療費を払うだけでよくなっているので、生活はかなり助かってます。
かなり時間はかかると思いますが心身ともに体調がよくなったら、父とはゆっくり話をしてみたいと思います。
またみんなで家族そろって食卓を囲んで楽しくわいわいご飯を食べたいなって思っています。
※みんなで食事を食べるのが夢の一つになっているのはこういう理由です。
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※21年12月14日追記
父と仲直りして家族そろってご飯を食べることができました。